夢現逃避

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 トラジャの香りを楽しみながら、奥へ消えていった店主が戻ってくるのを待つ。今までにないほど、この香りはリアルだ。カップの温かさは感じられないけれど、湯気が揺らす空気の振動さえ感じることができる。まるで――。

 私がうっとりと目を閉じて珈琲を楽しんでいた間に、店主は一冊のスタンプアルバムを胸に抱えて奥から持ってきた。アルバムが既に骨董品、と言えそうな装丁が美しく少し重そうなスタンプアルバムだった。店主はカウンター越しに、私に向かってそれを差し出す。

「どうぞ。目的の品があると思いますよ」

 いやに確信的だな、と思ったけれど追及するほどのことでもないような気がして、私は手渡されたスタンプアルバムを開いた。オリエンタルな雰囲気の切手が最初に、続いて円や扇などの変形切手、さらに今の時代では骨董品というよりも博物館にでも置きたいくらい古い稀少切手。私はひとつのページに長く目を留めることなく先へ進む。続いて現れたのは店主の趣味か、鳥の図柄を集めたページだった。その次は花。続いて昆虫。私はやはりそれを流し見る。

 目的の品は現れないのでは、と私が不安に思った頃、捲ったページの先にちらりと見つけた切手に私の手が止まる。あった。あったのだ。私がこの手紙に貼って、恋人に手渡そうと考えていた切手が。私は震える指でその切手をファイルの上からなぞった。店主はその指先を見て、首をことりと傾けた。

「シークレット・マークですね」

 店主の言う通りだった。そのページには有名なシークレット・マークの入った稀少な切手が集められている。その中の一枚が私の探していた品だった。

「ご存知でしたか……と、骨董品屋さんにそう言うのもおかしいね。そうです。私に必要なのはこの切手というより、このシークレット・マークの入った切手なんです」
「それは普通発行された年号にCopyrightのCマークをつけて入れるはずのシークレット・マークと一緒に、別の年号を刻んだ特別な切手」

 店主の細い指がそっと切っての中央からやや右下の部分をなぞる。そこにはCマークと四つの西暦年が並んでいる。元々シークレット・マーク、秘符は偽造防止用に刻まれたもので、ものとしては確かに年号をデザインの中に紛らわせる方法が主流だった。けれど中には別のマークを入れることもあって、どれもそれとして言われて見なければ、小さな切手の中でどれがそれなのか分からないようなものだった。

「そう、デザインした人間が勝手に入れたものです。最も、誰にも気付かれなかった。彼が死んで、その後に息子によって公表された事実だったから」

 正規の西暦年は切手を見慣れた者にとっては秘密、と言えないほどありきたりの場所に刻印されていた。だがこの切手に隠された秘符はひとつではなかったのだ。切手の右下部分にある西暦年。けれどそこよりも大きく堂々と、デザインした男はもうひとつの年号を入れ込んでいた。肖像として描かれた人物の、その目の中に。

「正規の年号以外に紛れさせた年号は、彼と妻の結婚した年だった。彼は結婚五十年を記念して、最後の仕事となった切手のデザインに、彼と妻の特別な年を加えたのでしたね。失礼ながら、貴方にも奥様がいらっしゃるのですか?」

 奥様、という言葉に私は恋人の嫌そうな顔を思い浮かべて苦笑した。もし結婚という形で結ばれていたとしても、彼女は決して他人からそう呼ばれることを望まないだろうと容易に想像できたのだ。

「いや、結婚はしていないんですよ。でも、大切なパートナーなんです。付き合って五年になるから、何か記念になるものを、と思ったのです。でも……折角切手を手に入れても、私は、起きられないから」
「起きられない?」

 そう、夢の中の人物は皆こうして首を傾げる。これが夢だと知っているのは、夢を見ている私だけなのだ。

「早く起きなさいよ、お寝坊さん。何度あたしがキスしてやったと思っているの?」

 そう言って何度も痩せた頬を指でなぞる。冷たい、と感じるようになってしまったのは何も最近のことではない。

「……やっぱり性転換しなくちゃ駄目かしら。あれって相手がお姫様だから王子様のキスなのよね? あんたが王子様だったら、あたし、やっぱり本物のお姫様になんなくちゃ駄目なの?」

 そんなことで起きてくれるのであれば、今すぐにでも。起きてくれる可能性があるのなら何だってやる覚悟はできているというのに、その可能性さえ治療屋には見えていない。

 これを歯痒いと思わないでいられようか。

「こんな夢を見ていても、結局、手紙は出せない。これが彼女に渡ることはないんだ……」

 私は切手の貼っていない手紙を握り締める。こうして切手を見つけることができたということは、今までにない進歩だった。けれどそれも束の間のこと。脳の見る夢は長く続かず、私はまた別の夜の街を歩いて切手を探して彷徨うことになるのだ。

「夢、ですか。僕はつまり、貴方の夢の登場人物ということですね?」

 ちょっと心外だ、という口調の店主に私は苦笑で返した。今までだって夢の住人に、これが夢だと訴えて確かにそうだと納得された経験は一度もなかった。今日もそれが当然だと思ったのだ。

「多分。目覚めない私はもう、それこそ夢の中の住人なのかもしれないですけれど。……あの時、チョモランマに行かなければこんなことにはならなかったのかもしれない……と。あれからずっと聞こえている。眠れと言う声が。私はそれに従うことしかできない」

 自嘲してつと視線を上げると、店主の表情に違和感を覚えた。元々人形めいて見える整った顔が、人形でさえ浮かべているほんの少しの笑みさえごとりと落としてしまったような無表情になったのだ。その空虚さが逆に、夢にはないリアルさを持っているように感じられた。

「どうかしたのですか? 気分でも?」

 声をかける頃には店主の表情は最初の通りに見えた。何だろうか。何かがおかしい。

「いいえ、どうしてですか?」
「いや、いま一瞬……」

 まるですっぽりと人格が抜け落ちたように見えた。だがそれは言えなかった。

「……チョモランマに行った。そして、貴方は眠り続けている」

 私は少しこの店主が怖くなっていた。美しすぎるから? それもある。しかし、それだけではない。

「目覚めることができないんです。もうずっと、夢の中でこの切手を探していた。今日はようやく見つけることができたけれど、これは現実じゃない」

 私はこの目に相対するという恐怖を知っている。だから怖いのだ。

「……そう。これは夢ですね。現実ではない。でも、現実だって夢に近い。貴方は夢の中でこの店を見つけ、入ってきた。私の方ではこの店で貴方と会っていることは現実なのだけれど」
「まさか」

 まさかまさか。これが私の夢だけではないというのか? 私の夢が、現実に繋がっていると?

「証明しましょうか。その手紙、僕が貴方の想い人に届けて差し上げましょう。貴方の壊れた夢を直すためには、それが一番良い方法です」

 そう微笑んで伸ばされた手に、しかし私は素直に手紙を預けることはできなかった。

「夢は壊れてもいいんだ。私は、私は目覚めたいのだから」

 目覚めて直接、彼女に渡したいのだ。もうどれほど、待たせてしまっているのか見当もつかないけれど。今でも彼女は私を待っている。そう思うことができるから、もし今私の夢が現実世界に繋がっているのなら、そのまま現実に戻りたい。

「……残念ながら、貴方を直すことはできないんです。直すわけには、いかないんですよ」

 微笑を顔に貼り付けたまま、店主はそう言って私の手から手紙を奪い取った。


 何故? 何故なのだ?


「ね、どういうつもりなの? どうして今頃、こんな手紙があたしのところに?」

 答えを得られることのない問いかけを、治療屋は恋人に向かって放った。その手には、古い切手の貼られた手紙がある。郵便事業などとっくに廃れてしまっている世界だから、切手を貼った手紙は誰かが直接治療屋の住むこのビルに届けたものだった。その誰かは、この手紙の差出人となっている彼女の恋人では有り得ない。

 九年前、チョモランマの麓の村で奇怪な事件が起こった。村の住人すべてが参加するという夏至の祭りの日。その祭りを見物するべく村に入った人間を含めた五十四人が、祭りの始まった直後に全員倒れた。見物客の家族が祭りの終わる時間になっても帰らない家族を心配して村に連絡をとったが、これだけ通信網が発展した世界で、その村への通信に誰も返信することがなかった。すぐに近隣の町から人が入り、まさに祭りを始めようとしているその姿のまま、倒れている村人達を発見した。

 まず疑われたのは伝染病だ。だが後に入った町の人間には何の異常も見られず、しかも村人達は全員生きていた。あらゆる検査がなされたが、結局、出された結論は全員が“眠っているだけ”というものだった。それから九年たった今も、村人達は相変わらずただ眠っている。

 治療屋はたまたま興味があって祭りを見物に出掛け、眠っているだけという状態になった恋人を引き取り、自分でもあらゆる検査を行った。だが結果は他の医師たちが下した判断と同じ。恋人はただ眠り続け、治療屋は恋人を治療することがかなわないまま九年間、恋人の寝顔を見続けている。

 一体祭りの前に何が起きたのか。それを知っていて、真相を語れる者はいない。誰もが終わらぬ眠りの中に沈んでしまっているからだ。

「起きてよ。手紙じゃあなくて、直接あたしに言って」

 何故そんなことを言う? 直すわけにはいかない、ということは、その気になれば私を直せるということなのだろう。私を目覚めさせることができる、と。ならば何故それをしてくれない?

「交代してくれ、マイク」

 段々と視界が白くなってきて、そろそろ夢が覚めることが自覚できた。白く霞んだ視界には、またごっそりと人格を落とした店主の顔があった。私は、その顔を見たことがある。そう、あの祭りの日。突然小型飛行船から降り立った一人の子ども。男の子か女の子かもわからない。ただ異常なくらいに整った白い顔をしていた。その子どもは、村人達の集まる祭りの真ん中に降りて、まるで神のように一言だけ――。

 ネ・ム・レ。

 それからすべてが真っ白になった。それから私は夢を彷徨っている。眠れといわれて、それに逆らうことができずにいるのだ。それが、私が店主に感じた恐怖の正体だった。

 逆らえない、戻れない、そんな恐怖。

「……あぁ、分かった。今日はもう閉店した方が良さそうだな、俺は珈琲なんて上手く入れられないし」

 店には客など一人もいなかった。だがカウンターにはしっかりと最後まで飲まれた珈琲が、カップの底に数滴だけ残っていたし、古いスタンプアルバムは広げられたままだった。店主はアルバムの中から一枚の切手を取り出して、手にしていた手紙に貼り付けた。

「眠れる森の王子様、か。お姫様には確かに渡してやるよ。だから夢から現実に逃げ込んで、流華を怯えさせるのは止めてもらいたいね」

 他の誰が聞いても意味の通らない言葉を呟いて、店主はカップを流しに片付けただけで、そのままいつもより早い店じまいを始めた。

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